きみはペット -7-
「フェリ、お散歩いきませんか」
日曜日、部屋でフェリの頭をなで、十分に一週間の疲れが癒されたところでそう言った。
ぼーっと菊の膝で寝ていたフェリが、がばっと顔をあげて手をあげる。
「お散歩っ?わーい、行く行くー!」
「カークランドさんに美味しいナポリのお店教えてもらったんです、そこいってお昼にしましょう」
やったぁパスタだ、と叫ぶフェリを背後に、菊は小豆ジャージから着物に着替える。
菊は部屋着にすら着替えておらず、言ったとおりすぐに昼の時間が来るのだが、まだパジャマである小豆ジャージ姿だった。
着替える気力もなかったのだ。それほどまでに今週はきつかった。
着替え終わると、携帯がなった。出かけにタイミングが悪いな、と思いつつ取るとカークランドだった。
「菊、今日出てこれないか?昼を取ってないなら、それも一緒に」
「あー……」
ちらりと後ろを見ると、うきうき跳ねているフェリ。かといってカークランドの声もいつもより調子がいい。
いつもなら、ペットよりはもちろん恋人を優先する。当然だろう。
だが、こんなにも菊が疲れている主たる原因はカークランドだ。
仕事中なら変わらずいられるが、休憩時間、定時後に二人っきりになると地獄がはじまる。彼の期待の目にこたえるのは菊にとって至難の業だった。
疲れた体にここで選ぶのは、カークランドへのタメ口と呼び捨てか、フェリとの安らげるひとときか。
「すみません、カークランドさん。今日の昼は人と会う用事がありまして……」
すみません、今週、本当に疲れたんです。ほんとタメ口とか無理なんです。
「そ、そうだよな、急に悪かった。……菊、カークランドじゃねぇだろ?」
「あ、アっ、アーサー……さん……。ごめん、です」
敬語じゃない普通ってどんなものだったっけ。
菊がそれを使っていたのはずいぶん昔で、思い出せなかった。
「そ、それじゃあまた、会社で、あ、会うのを楽しみにしてる……ね……」
ああ、とのカークランドの返事を聞いてブチッ、携帯を切って座布団に放った。
一部始終を見ていたフェリが心配するように菊の顔を覗きこんでくる。
「き、菊ー、だいじょーぶ?」
「疲れました……。ああもう、なんなんですかあの人は!」
何十年間も使ってきた言葉遣いを変えろとは、菊には酷な話だ。
もちろん、敬語が菊の癖だと知らせていないカークランドにそれを察しろというのも無理な話。百も承知だが、愚痴の一つでも言いたくなるのが人間だ。
「菊、菊。へーい、かもーん」
フェリが両手を開いて構えた。菊の拳は憤りに震えていた、打ちこんですっきりしてよ、ってところだろうか。
「……っ失礼!」
久しぶりだ、と一週間で溜めた憤りをすべてぶつけるかのように、フェリの開かれた手に右ストレートを打ち込んだ。
パァン、と気持ちのいい音が走る。フェリが打たれた手を持って、顔をしかめた。
「いったー……いいパンチだね!なにかやってたの?」
「あなたこそ、よく耐えられましたね」
かるく吹っ飛んで尻餅をつく、くらいは想像したのだが。多分だけれど、手を上手い具合に動かして衝撃を吸収されたんだろう。
昔こそ兄に連れられいろいろやったものだが、何年もやっていなかった。打ち込んでスッキリできた気がする。
ナポリタンは以前来たとおり、凄く美味しかった。
あの時とは違い、パスタに騒ぐフェリがいたたまれなくさせたが、カークランドと食事をするときはマナーを守ろうと緊張していることが多いので、美味な料理に集中できたのは嬉しいことだ。カークランドが選んだにしては、足を運びやすい庶民的な店である。
感じのいいウェイトレスをフェリが口説こうとしたので叱り、店を後にした。
いい感じの店だったのが次はちょっと来づらくなってしまった、食欲には逆らえないだろうが。
「ちぇー、あの子可愛かったのになー」
「ペットの分際で彼女もとうっていうんですか?」
「ヴェー、番号は控えとくの!」
無駄話をしながら、人通りの少ない道をぽてぽてと歩く。日本とは違って、計画通りに組み立てられた欧米の都市は歩きがいがある。
事前に計画をみて都市の構造を覚えておいて脳内の綺麗な地図のとおりに街を歩くもよし、事前知識ゼロで自分で歩きまわって頭の中で地図を組み立てて計画をよみとるもよし、頭を働かせずに計画者の意図のとおりに外観を楽しむもよし。
だけれど、親近感をわく日本の道はまた違う味がある。
個々人で作られた家に庭、それがどれも手入れされていて、こういう休日にはいつも人々が庭でくつろいでいる。歩けばそこらじゅうが知り合いで、まるで大きな家族のよう。
それは単に菊の育った田舎の日本のイメージだが、都会に出るまえに外国へきたので比較対照は田舎の日本しかない。
「パスタ美味しかったなー、晩ごはんもパスタがいいなー」
「二連続でですか?嫌ですけど……」
フェリに生返事をしながらつらつらと歩いていると、通勤途中に通る道に入った。
人間慣れたものには無意識に惹かれるとはよく言ったものだ。
「あのさー、菊」
どうでもいい話題を振りまくっていたフェリが、くるりふりかえって、急に真面目な声を出す。
なんだろう、と菊も真面目に聞いた。
「言わないとわかんないことだってあるよ」
「……何の話ですか。主語と目的語をはっきりさせてください」
「えっとね、オレははっきりしたいことを言ってるでしょ」
「わがままとも言いますが」
「むー。あのね、菊も、オレにははっきりモノを言ってるよ。でも、仕事の人とかは違うよね」
菊の一般的な認識としては、家族でもない仕事の仲間、なんてものにはそれが当然だ。
逆に、そんなに自分はフェリに言いたいことを何でも言っているのだろうか、と自分をふりかえる。
「気を遣ってあたりまえです」
「カークランドにも?恋人なのにー」
「……そんなに気を遣っては」
気を遣っていない、と言えるだろうか。菊は最後まで言葉をつむげなかった。
カークランドには着物が普段着と話すのにも躊躇したし、アーサーと呼ぶのは恥ずかしいということも伝えられない。
敬語が癖になっているから家族にだってタメ口では話していない、ということも話せていない。食事中にもマナーを犯してしまわないか、ハラハラして食事より彼との会話より、そっちに集中してしまう。
たしかに、気を遣って話さないことは多い。
「…………」
続く言葉が浮かばない。フェリの言ったことは的を得すぎていた。
でも話さないということについては、フェリだって同じだ、と菊は思う。
菊がフェリを拾う以前のことを菊はなにも知らない。彼の本名、彼の遊び癖、彼の性格、どれも今のことしかわからない。
今のこともあまり知らない。平日の昼間、菊の家を出てどこでなにをしているのか、知らない。
こっちはなんでも相談してしまっているのに。
シャンプーするたびに目に入る、体に走る古傷のことだって、あなたは話してくれないじゃないですか。
なんでもいいから言い返そうとしたが、言葉を思いつくまえに横槍が入った。
「フェリちゃーーーん!!」
道の端から、彼を呼ぶ声がした。
どうして菊が彼につけたペットの名前を知っているのだろうか、と動揺したが、よくよく思い出してみると菊の適当につけた名は彼の本名とかぶっているんだった。愛称と思えばなんのおかしさもない。
サングラスをかけたその男性はかけよってきて、菊を一瞥してフェリに話しかける。
フェリはといえば困ったような笑みを浮かべていた。
「ようやっと見つけたー」
「トーニョ兄ちゃん……」
「探しとったんやでぇ。ほんまに昼間しか顔ださへんし、ケータイ電源切っとるし、どこに住んでるかと追けさせたら撒くし」
男はフェリとおなじラテン系だった。呼び方からするとフェリの兄であろうか。
にこにこしながら顔にかけていたサングラスを頭にあげ、訛った英語でフェリに親しげに話しかける。
「いいじゃん、やることはやってるしー」
「よくあらへんわ、みんな心配してんやで。戻ってきー」
どうやらこの二人の関係は深いらしく、菊は一人とりのこされていた。
戻る。菊は失念していたが、フェリに昔の生活がある以上、菊のペットとしての生活から元に戻る可能性は大いにあるわけだ。
「……もういーい?オレ行くから」
「え、フェリ?……いいんですか?」
フェリは帰るという意思表示だろうか、菊の背中をぐいぐい押していた。
ラテン系は今だににこやかだったが、彼から離れはじめた二人を、菊の腕をつかんで静止させる。
「待ってぇな、フェリちゃん、いま泊まってるとこくらい教えといてや」
「やだよ」
「わがままやなぁ。えーと、お嬢ちゃん?君からも言うたって、部下に心配かけたらあかんやろって。フェリちゃん、君んとこに居てるんか?せや、ほんならついでに名前教えといてもらえんやろか」
マシンガントークとはこういうものか、というほどラテン系が菊に話かけまくって、菊が謎の展開に困惑していると、フェリが二人の間に割って入った。
「この人はなにも関係ないよ」
この人、か。まあ知り合いに、今オレおっさんのペットやってますなんてカミングアウトは人目に無頓着な彼でも嫌なんだろう。
フェリは菊の手をつかんだままのラテン系の腕をひきはがして、今度は菊の腕をとって歩きだした。
「ちょお待ってや、フェリちゃん」
ラテン系は慌てたように追ってきたが、途中でフェリがふりかえるとその足を止めた。
「トーニョ兄ちゃん。後つけたりしてきたら、オレ、ほんとに怒るよ」
珍しくフェリが真顔でそう言うと、ラテン系は黙ったまま菊たちを見送った。
そういえば、菊はフェリの喜哀楽は見てきたが、怒ったところは見たことがなかった。
