] aph

aph

ランナー  1



バッシュは海を見据え、靴紐をきつく結ぶと立ちあがった。
ここから海岸線を走って目的の公園までたどり着く、そして折り返して隣の道を戻ってくれば、ちょうど6キロ程度だろうか。
春休み中の自主練習には足りないかもしれないが、足りない分はもう一度走るか、嫌だが部活に出るなりすればいい。
寝起きの身体を起こすため、軽いアップをすると、バッシュは位置につく。
この町で朝8:00に流れる、謎の音楽と共にスタートを切った。
ともかく、走りなれた場所が一番である、とはバッシュの持論だ。
自分の調子もわかるし残りの距離も正確に把握できる、自身を高めるのに一番理想的なカタチだ。
精神状態を整え、呼吸もできる限り等間隔にし、ペース配分、距離、常に頭で計算しながら走る。
最近、バッシュの精神を脅かそうとしていることがある。
ただしバッシュ自身、それがどう影響してきているのかはわからない。

彼女が自分とおなじ道を走っているということに気づいたのは、というよりバッシュとおなじ道、おなじ時間を走るようになったのは春休みにはいってからだ。
走る距離は同じくらいなのか、バッシュより早くスタートを切っているらしく、いつも先を走る彼女を残り1キロで捕捉する。
そうして追い越して、バッシュが先にゴールする。
その後にこまごまとした筋力トレーニングをしていると、彼女もゴールするのだ。バッシュはそれからも少し走って帰るが、彼女はすぐに帰ってしまう。
バッシュは自分が彼女をどうして気にするのかはじめはわからなかったが、次第に理由に気づいた。
美しいのだ、走る姿が。
走り終えた彼女は、少し小柄な平凡なアジアンだ。
だが、走っているときは違う。
まっすぐ前を見据えて、ただ走る。
その姿からするに、走っている彼女に雑念はない。まさに理想的な精神状態だ。
小柄な身体は規則正しく動き理想的なフォームを描く、揺れる黒い短髪のリズムもその象徴だ。



ある朝、バッシュは唐突に彼女の背中を追いたい、と強く思った。
その所為なのかは知らないが、残り1キロで彼女の姿を目にしてから、結局ゴールまでずっとその姿を追ってしまった。
つまりは、いつものように彼女を追い越すことなく、いつの間にか彼女とおなじペースに落として、彼女の後ろを走ってしまいゴールしてしまったのだ。
ハァハァと息を乱しながら彼女は整理運動をしている。
確かに彼女は一日一日スピードを上げている。バッシュが彼女を追い越す場所もだんだんゴールに近づいているし、バッシュがゴールしてから彼女がゴールするまでの時間も縮んでいる。
だが今回のコレは、彼女の功績ではなくバッシュのスローダウンが原因だ。
自分の体くらい自分でコントロールくらいできると思っていたばかりに、ショックは大きい。

「……あの」

バッシュも彼女に習って軽い整理運動をはじめると、すでにやり終えた彼女が控えめに話しかけてきた。

「なんだ?」
「お体の調子でもお悪いんですか?」
「……」
「勘違いならいいんですが……途中からペースを落とされましたよね」

気づかれていた。当然かもしれない、自分以上に彼女は日に日に伸ばしているがペースが一定だ。
久しぶりに自分を恥じる。まだ病気が原因の方が良かった。自身の精神コントロールが原因だなんて認めたくもない。

「……体に問題はない」
「では何か……?」

走る姿に惹かれてペースが狂った、なんて言えるわけがない。

「放っておけ、明日には元のペースに戻っておる」

無愛想にそう言えば、彼女は戸惑ってはいたが、素直にその場を去った。
自分に、恥ずかしくて秘密にする、なんてことができるなんて思ってもみなかった。
ダッシュで忌々しい精神でも正そうか、と思い実行しているとパタパタと彼女が舞い戻ってきた。
その走りは適当で怠惰で、まったくバッシュに何も影響を及ぼさなかった。

「あの、スポーツドリンクです。よろしければどうぞ」
「……体の不調ではない」

好ましくないことではあるが、自分は単に彼女のあの走る姿にだけ惹かれたのだろう。
自分よりいい走者だとは思えないが、フォームが綺麗ならば惹かれる可能性はある。

「体と心、どちらが不調のときも、ご無理はなさらないように」

へらっと笑って、バッシュにドリンクとタオルを押し付けると、彼女はまた無様な走りで戻っていった。



二日後、走っているバッシュは彼女の姿を視界に捉える。
やはり何度見ても彼女のフォームやリズムは理想的で、じっと目で追ってしまう。
以前と同様、後を追いたいという欲望にも襲われたが、そこは精神論で乗り切ることができた。
残り1キロ付近で彼女を追い抜き、ゴールする。
いつものタイムとは微塵の違いもなかった。
昨日、バッシュは彼女がいない状態では走れていたが、彼女がいても走れた、と安堵する。
適当に整理運動をしていると彼女も遅れてゴールした。
彼女の息があらかた整うのを待って話しかける、もちろんスポーツドリンクも添えてだ。

「先日は助かったのである」
「いえ、おせっかいだったみたいで……あ、ありがとうございます」

彼女は笑顔でスポーツドリンクを受け取った。
「貴様は、W学園の生徒か?」
「はい」
「高等部か?」
「はい」

ともすれば中学生かとも思ったが、一昨日話した彼女の敬語は確立されていた。少なくとも中学生の使える言葉ではない。
すると高校生か。このあたりで高校といえば、バッシュの通うW学園しかない。

「学校では、どこで走っている?」

グラウンドで走る彼女の姿を、バッシュは見たことがない。彼女はひどくあいまいに笑った。

「……どこでしょうね?」
「我輩は陸上部である。我輩の部活にお前のようなやつはいないはずだ」

長い陸上歴である、人の走り方をみて、あるていどの訓練状況くらいはよめると自覚している。
彼女はバッシュのように長いこと走っていたというわけではない。
彼女のはまったく自己流というものが見えない、癖のないフォームを持っている。
どんなに練習しても、癖を直した後がすくなからず見えるはずなのに、彼女にはそれが見受けられない。
ここ数年で突然走りはじめ、才能が開花したタイプだろう。
するとなると、学校の部活動くらいしか思いつかない。
しかし、走り方に指導する部活は陸上部くらいだろう。ほかの運動部にとって、あくまで走りは体力を得る手段でしかない。
彼女のように美しいフォームを育てたのは何だ。どういう環境だ。うらやましい。

「そうだろう?」
「はい、陸上部ではありません」
「では何部だ?」
「……内緒、です」

彼女は遠くの空を見ていた。




バッシュを一瞬だけ惑わせた彼女の名は、本田というらしい。
本田の速度は少しずつ、だが順調に伸び、今ではバッシュが追いつくのはゴールの300メートルほど手前である。
本田は週に数回だが、来ないことがある。
理由は聞いてはみたが薄い笑みで流されてしまった。部活もわからないし、クラスどころか学年も教えてはくれなかった。
だがバッシュとしては彼女の姿を追いかけるだけで、結構な満足感を得ていた。
陸上とは一人の戦いでストイックなものだと思っていたが、共走も捨てたものではない。駅伝には興味がなかったが、着手してみようかとも思うほどだ。

「バッシュさん」
「なんだ」
「春休みが終わってしまえば、もう……ここでは走らないのですか?」

本田が柔軟をしながら聞いてきた。
彼女の体は柔らかい。柔軟にも手を抜いたことはないバッシュだが自身のつま先をもてるくらいなのに対し、彼女はかかとにすら手根が届き、ぺたりと膝に頭がつく。

「そうだな、部活で走る。休日にはここに来るだろうが」
「そうですか……」

彼女はどことなく寂しそうな顔をした。

「何故だ?」
「あなたと並んで走ることを目標にしていたのですが……春休み中には難しそうですね」

悲しそうに笑うと、本田はすっくと立ち上がってのびをした。

「貴様も学校で走ればいいだろう。今まで何部だったかは知らんが、陸上に来い」

すると、彼女は黒い双眸をパチリと開いた。
バッシュの言葉を理解したのか、目を細めて首を振る。

「我輩は、貴様が所属している部をやめろとは言っておらん。たまには、走りにトラックに来いと言っているのだ。鍛えた足の筋力を衰えさせるな」
「それが、私には難しいんです。バッシュさん」

バッシュには本田がそういう理由がわからなかった。
本田は走ることが好きなのだろう。それは見ていてわかる。
爽快感か走りおわった後の達成感か、孤独な戦いか、どれかは知らないが陸上の要素が好きなのだろう。
走る理由があるのに、走れない理由があるということがバッシュには理解できなかった。
陸上は、他のどのスポーツともちがい、健康な自分の身と平らな地面さえあればできる、特殊な競技なのだ。

「今日もダッシュは10本ですか?」
「ああ。貴様は今日は5本である」

ある日から、本田はバッシュの筋力トレーニングにも付き合うようになった。
バッシュにとって驚愕の事実だったことは、本田には走る以外の筋肉がほとんどついていないことだ。腹筋も腕立て伏せも一度もできなかった。ただし背筋は常人より鍛えられていて、走る以外の運動はしたことがない、といった風だ。そんなわけはないのだが。
しかしバランスが良くない。バランスがよくなければ息も切れる。
そう伝えると本田はすぐに努力をはじめた。
みるみるうちに本田は成長する。乾いたスポンジが水を吸うように、とは使い古された表現だがまさにそれが当てはまる。
本田がクラウチングスタートの体制を取る。
ビッ、とバッシュがスタートのホイッスルを吹けば、流れるように本田の肢体は動いて、風を切る。
本田の走る姿に惹かれる自分は、もう否定しようがなかった。
非の打ち所がなく、常に高みを目指すカタチ。
バッシュは、思わずため息を漏らしそうな自分を叱咤する。
自分はあれに焦がれるのではなく、目指すのだ。到達する人間なのだ。
何故こうも惹かれるのかわからない、自分より遥かに遅く、遥に弱弱しい存在であるはずの本田に、何故。
考えてもわかるわけがない自問に答えるのを諦めて、本田を見やると、そのフォームが崩れる瞬間だった。

「本田っ!?」

バッシュは倒れた彼女に駆けつける。
いつも走っているコースに障害物があるわけもない、毎日走り健康的な日々を過ごす自分たちに病気も考えにくい。
まさか自分の邪念が飛んでいき、悪さをしたか?なんて思い巡らしながら、本田の頬を軽くはたく。

「おい、わかるか?わかるなら返事をするのである」
「……っ、……バッシュさん」

本田はふらりと視線を泳がしていたが、バッシュにきちりと焦点をあわせてきた。
少しホッとするが、違和感を感じたのは彼女を抱きかかえる自分の腕だ。
直前まで走っていたにしても、彼女の細い腕は熱かった。

「本田、貴様、熱が……」
「大丈夫です」

本田はよろめきながらも、バッシュの手を拒絶して立ち上がる。

「すみません。体調が優れないようなので、今日は一本だけにしておきます」

そういわれると、バッシュには無理はするな、としか言えなかった。






   back    next




初のスイスさん……!瑞日、だいすきです。

11.1.2