爺と孫
「待ちなさい」
ノロマなジャッポーネはいいカモだな、ロヴィーノがそのカモから離れようとしたとき、財布をスったほうの手首を温かい手でつかまれた。
まさかカモがつかんだとは思わず、ひとまずふりはらおうとするが、とくに強くにぎられている気もしないのにびくともしない。
あせる矢先に先の台詞だった。
「は、はなしやがれ!」
「あなたが私の財布を返してくだされば放しますよ……って、まだ幼子じゃないですか」
ジャッポーネ――日本人はロヴィーノが暴れるのも無視して、人混みからぐいぐい広場にひっぱってきた。
ロヴィーノがいくら叫んでもこの町では人さらいに首をつっこもうとする余裕のあるものはいないし、コップが飛んでくることもない。この町ではスリにあうほうが悪い、とよく言われるのは当然のことだった。
「ほら、返してください」
小ギレイな格好の日本人はない背をまげて、ロヴィーノと目線をあわせるとやわらかなイタリア語でそういった。
「かえしてやるから、はなせよチクショーが!」
ポケットから財布を叩きつけるようにかえしたが、日本人は強くにぎったロヴィーノの手をはなすそぶりはみせない。
約束を守らないなんてことは経験上わかっている、スリにあったら警察へしょっぴくか自身で制裁を与えるのが常だから、逃げださなければ相当苦い。
ロヴィーノはつかまれたままの手を気にしながら体をひねって、すこし低い位置にある男の顔面めがけて足をふるった。
こちらの腕がふさがっているのと一緒でむこうの腕もふさがっているうえ、中腰気味の体制からだと重心の関係で足は使いにくい。
それでも生きのびるために覚えた命中率のたかい蹴りだったが、それはするりと空を切った。
「なっ……!?」
「手癖も悪ければ足癖も悪い、ですか。ろくな子供じゃないですね」
男は長ったらしい服をきているくせにロヴィーノの手をしなやかにかわしていて、かつ、いつのまにやら片手でロヴィーノの両手を拘束していた。もちろん、もう片方にはロヴィーノが盗ったはずの財布がにぎられている。
まぬけなカモとはどうやら格がちがうようだと気づいたが、一度スったあとでは遅すぎた。
あのあと命をあきらめ、双子の弟のことをぼんやりと考えていたロヴィーノだったが、男はなにを思ったのか、とくとくとスリという悪業についてさとし、もう二度としてはいけませんよ的なキレイごとを言ってのけた。長々と。
なんらかの体術の経験があるらしい男をまえに、逃げられはしないだろうとあきらめていたロヴィーノがうっかり、「そんなんじゃオレもおとうとも、いきてけねーんだよコノヤロー」と悪態つく。
男はぱちくりと目を見開いて、ようやく手をはなした。金持ちの考えることはわからない。
それから男は本田菊と名のり、ロヴィーノの名前を聞いてくる。
微妙におどされつつ答えれば、またもやぱちくりと瞬きした男に、弟のことも聞かれた。
「だれがテメーにおしえるかよ」
「そこをなんとか」
「しってどうするきだ!」
オレを殺すだけじゃたりずに、弟までノして楽しむ気か?
本田をにらみつけると、にこりと笑いかえしてきた。
「その子にも説教かましとこうかと」
「……あいつに、スリなんてできねーよ」
「おや、そうなんですか」
男は眉をさげて、なぜだかすこし嬉しそうな笑みをうかべた。
弟のフェリシアーノは笑顔が多いが気が弱い。
即物的なことはまだ二人とも体格な面でムリだったが、フェリシアーノは盗みもスリも無理だった。かろうじてできるのは小物の置きびきくらいか。
できないと泣いてかたづく問題じゃない、無理やり実行させてみたが、やすやすと捕まってしまうこと数十回、それを救いだすのに必要な労力は半端なく、ロヴィーノは諦めざるをえなかった。
かと思えばあののほほんとした笑顔と話術で、少しはかせぐようになった。が、ほとんどはロヴィーノの金で双子は生きている。
もしロヴィーノが捕まったときは、隣町のアントーニョに養ってもらえとフェリシアーノには伝えてあった。
兄の自分が死んでもあのお人好しがいれば、ひ弱な弟は生きていくことができる、だから、なにがあってもこの男にフェリシアーノのことを教えるわけにはいかなかった。
「お願いしますよ、悪いようにはしませんから」
「テメーがようがあるのは、オレだけだろーが」
「ロヴィーノくん、歳上の人には敬意を払いなさいと……」
「うるせーよチクショー!きやすくよぶな!」
本田は困ったように笑っている。
さきほどの強そうな彼がどこかへいったような気がして、ロヴィーノの頭に逃げる選択肢が生まれ、具体的に方法を考えはじめたときだった。
「あー!にーちゃんいたぁぁーー!」
聞きおぼえのありすぎる声がまぬけにひびく。人の気遣いをなんだと思ってやがるんだこいつは。
本田はきょとんと声の主を見て、合点がいったようだった。
ロヴィーノと弟は双子というやつで、よく似ているのだ。
「……おまえな、まってろっつっただろーが!」
「ヴェェェーー!なぐらなくてもいいじゃんか!……あれ、にーちゃん、このひとだれー?」
いま泣いたカラスが、とはよく言うもので、涙すら浮かべていたフェリシアーノはころっと笑顔になり、本田を指さす。
本田はすかさず、自分に向けられたその手をぺちんとはたき落とした。
とたん引いたはずの涙が、また弟の目元に浮かぶ。
「ヴェ、たたかれたぁぁーー!」
「そんくらいでなくな!うるせー!」
「人を指差しちゃいけませんよ、特に歳上は敬うべき存在です」
フェリシアーノの手をひき本田がそういうと、素直な弟はぼろぼろ涙を流しながらもうなづく。
それを見た本田は叩いたフェリシアーノの手を褒めるようになで、にっこり笑った。
「はじめまして、私は本田菊といいます。あなたのお名前を教えてもらえますか?」
やわらかな雰囲気に釣られたのか、きりかえのはやい弟もすぐ笑顔になった。
「フェシリアーノ・ヴァルガス、です!」
元気に名のる弟を、ロヴィーノはまたこづいた。名前をかるがるしく名のるなと言いきかせてもこの弟はききゃしない。
本田はよろしくおねがいします、とフェリシアーノと握手すると、帽子をかぶりなおして、しゃがんで言った。
「ちいさなヴァルガスご兄弟、相応の給料は支払います。この町の案内をお願いできますか?」
「……へ?」
「……!」
「そうですねぇ、まずは美味しいパスタが食べれる店でも」
そこでお昼にしましょう、と本田は笑った。
