昼下がりの図書館。それは菊にとって、憩いの場だった。
私立図書館の司書として勤めはじめて数年になる。朝がたは利用者は少ないが仕事が多い、昼下がりから2、3時間後には学校帰りの子供が増え、それに対応していたら会社帰りのサラリーマンの対応に終われる。つまるところ、今という時間が一番暇で何を気にすることもなく読書にいそしめることができるのだ。
中々の蔵書量を誇る図書館ではあるが、二人という人数で乗り越えている受付も、このときばかりは一人になる、人付き合いの苦手な菊にとっては極楽浄土といっても過言ではないそんな昼下がり。
一番眠気が襲ってくる時刻に、ここ最近珍しい客が訪れている。
非常に背が高い彼はゲルマン系の顔をデフォルトでしかめている。きっちりとした髪型にきっちりとした服装の彼は常に洋書コーナーで本とにらめっこをしている。
母国語もしくは英語しか話せないのだろうと想像して、貸し借りという無言の事務作業以外で話しかけられることに怯えること数週間。話しかけられたなら奥にいる同僚を引っ張りだしてきて相手をさせよう、そう思っていたらいきなり近づいてきた彼の口から出たのは流暢な日本語。ほっとしていれば祖母が日本人なんだといらん情報まで教えてくれた。ご用件はとうかがえば、日本語の本をレファレンスしてほしいとのこと。
レファレンス、レファレンス、・・・ああ本選びね、こちとら純日本人なんだ、妙な横文字を使わないでくれと文句を言いたいが、そこは一応客商売、なんの利益ももたらさない客たちではあるがにこやかに対応する。
「日本語が学べるような簡単ものを頼めるかな」
それだけ訛りのない日本語を話しておいて今更学びたいとはなんとも妙だ、もしかするとお子さん用だろうかと尋ねた。
「・・・まだ学生なんだが、そんなに老けて見えるか」
100%ゲルマン系にしか見えない彼が日本語を話せると知ったときに続くカルチャーショックだ。同い年か年上かと思っていた。学生のくせに敬語を使ってこないあたりを見ると、彼からは年下か同期とでも思われているんだろう、アジア系は欧米人からするとひどく幼くみられがちだから悔しいがしょうがない。うん、特別童顔とかじゃなくてきっとそうだと信じたい。
「喋るのは問題ないんだが、読んだり書いたりは少々、漢字がな」
少し照れ臭そうにそう言う彼はようやく年相応に見えた。
本質として真面目で固そうな雰囲気の彼に絵本を渡す勇気はなく、少し漢字は多いですがふりがながふってありますから、と小学校低学年向けの児童書を数冊手渡した。漢字を本当に学びたいなら小学生用の漢字ドリルがありますがとすすめるとゲルマン系は顔をほころばせた。ずいぶんお固そうな老け顔男だと思っていたのだが笑顔は妙にやわらかく幼かった。
彼は児童書と漢字ドリルを借りて昼下がりの図書館を去っていった。傍からすればどう見ても子供思いの教育親父である。・・・親父は似合わないか。教育パパ?
それ以来たからものであるはずの憩いの時間にゲルマン系とよく話すようになった。
彼が漢字練習と称した児童書だがその中になにか感じるものがあったらしい、もともと児童書好きの菊とやたら盛り上がった。彼に新たな児童書を紹介するために最近は児童書中心のラインナップになりつつある。憩いの時間が待ち遠しかった。
休館日の水曜と何故だか月曜日以外毎日訪れていた彼がその日は来なかった。どうしたんだろうとは思ったが、それ以上特に気にも止めなかった。ところが翌日もそのまた翌日も青年は来ない。何かあったのだろうか、心配するも思い返せば彼との会話は本など児童書中心、ときたま政治やら食品汚染などのホットな話題にかするくらいであるから互いのことなど名前と本の趣味くらいしか知らない。メールアドレスのひとつも知らないし家はもちろん彼の通う大学も聞いたことがない、ここ私立図書館だけのささやかな談議相手。彼は多感な学生だ、本より熱狂できる対象が見つかったんだろう。
図書物返却期限の一週間後、ルールには厳格だった彼にささやかな期待はしたがすでにコンビニ経由で返されていた。これらのサービスを疎ましく思ったのははじめてだ。
ふと気付けば、あれほど楽しみにしていた憩いの時間がすでに半分すぎていた。手にはまったく内容の入ってこない児童書。どうやら自分はずいぶんあのゲルマン学生に囚われていたようである。来なくなった当初は寂しい?なんてからかってきた司書仲間も、今では話題にすること自体を避けていた。
彼が来なくなって2週間。憩いの時間に菊がまどろんでいると、本に影が落ちた。利用者かと顔をあげれば、彼でもなければゲルマン系でもないもののそこにあるのは外国人の顔。アイキャントスピークイングリッシュ、こんな日本人英語が伝わるとは到底思えないが本田菊、必死で頭の中、高校時代の記憶をたぐり寄せる。
ゲルマン系を見慣れた自分からすれば、ずいぶん軽いイメージを持つ彼が喋ったのは、菊の心配むなしく心喜ばしく日本語であった。デジャブだなぁと用件を待てばキクだよね?とにこやかスマイルで返される。日本人以外の知り合いなんて例のゲルマン系しか知らないがと不信感を向ければ、友人はメモを取り出した。そこには明らかに書きなれていない日本語が。
「オレ、ルートヴィッヒのともだちー」
ルートヴィッヒ。一度聞いただけでは覚えられなかった、ゲルマン系の彼の名前。
早く渡したかったんだけど図書館なんて来ないから探すのすっごく苦労して、彼とは違うたどたどしい日本語でそんなことを言ってきたが、菊の意識は彼からだというメモを解読することのみに注がれていた。
友人が持ってきたメモには、彼の祖母が病に伏したとからしばらく本国に戻る、事後報告ですまない、そんなことが下手な字で書いてあった。そのまま紙面上を追えば、彼の名前と、数字の羅列とアルファベットの羅列。
ぎゅう、と胸が熱くなって、泣くつもりはさらさらなかったが目元に涙が溜まる。目の前の彼が関係ないのに焦って、ごめんねぇを連発する。慌てて、違うんです伝えてくれてありがとうございますと首を振った。彼に、お大事にと伝えてください。
「せっかくあげたんだから、じぶんで言いなよ!」
友人は女の子をひっかけて帰っていった。
菊の手の中には再び児童書が納まっていた、ゲルマンと会わなくなって約2ヶ月たつ。朝から何度も時計をみて、同僚から変だと指摘されてしまった。待ちに待った憩いの時間に入るとすぐに見覚えのある金髪が図書館に現れた。
一筋の乱れもなく後ろになでつけられた髪、見かけより老けてみさせる原因の眉間による皺、深いブルーの両眼。パタンと本を閉じて、菊は彼に向き合った。
「久しぶりだな、菊」
「ええ、会うのは久しぶりですね。今日のレファレンスは?」
「児童書で頼む」
ゲルマンの友人が持ってきたメモには、彼の祖母が病に伏したとからしばらく本国に戻る、事後報告ですまない、そんなことが書いてあった。
カクカクの日本語とは違い几帳面な美しさで印された彼の名前の下には、やはり印字のような一行の数字と一行のアルファベットが羅列してあった。
彼の電話番号とメールアドレスである。